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    • 2019.09.22 Sunday
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    【一口法話】山門掲示板の言葉 『良い事があってこその笑顔じゃなくて 笑顔でいてれば良いことがあると思えたら それが良い事の序章

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      『良い事があってこその笑顔じゃなくて 笑顔でいてれば良いことがあると思えたら それが良い事の序章』

       

      Mr.Children PADDLEからの1節です。

       

      良い事があると笑顔になります。

       

      仏教には『和顔愛語』(わげんあいご)という言葉があります。

      無財の七施 財産を使わない 誰でもできる施しの1つとされています。

       

      『やさしい顔とやさしい言葉』

       

      人を見る時に視覚の印象が80%を超えるそうです。その人が怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか 顔の印象から察知できるのです。怒っている人に対しては配慮します。笑顔の人にはこちらも嬉しくなります。

       

      言葉も時に凶器となり時に喜びを与えます。

       

      ひとつのことばで けんかして
      ひとつのことばで なかなおり

      ひとつのことばで 頭が下がり
      ひとつのことばで 心が痛む

      ひとつのことばで 楽しく笑い
      ひとつのことばで 泣かされる

      ひとつのことばは それぞれに
      ひとつの心を持っている

       

      言葉も表情も相手を傷つける事も 笑顔にすることもできます。

      人に与える人になっていく 前を向いていける人になっていく

      日々 意識的に口角を上げていくと 心も上がっていきます。

       

      笑顔でいれば 良い事がある 『笑顔で生活しよう』まさにそう思えたら 良い事の始まりですよね

       

      春らしい 笑顔の毎日を心がけていきましょう

       

       

       

       


      生きている人には生きているまま愛を【一口法話】亡くなった人には亡くなったまま愛を

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        お釈迦様在世の時代。

        突然我が子を亡くした女性ゴータミ。我が子を何とかして生き返らせたいという想いから

        荼毘に付すことができず、亡くなった我が子を抱いてこの願いを叶えてくれる方を探していました。

        そこでお出会いしたのがお釈迦様

        腐敗した我が子を抱きしめながら彼女は、

        「何とか亡くなった我が子を生き返らせていただきたい」とお釈迦様に懇願されました。

        すると

        お釈迦様は「わかりました。ただ1つ条件があります。ケシの実をもらってきなさい」とおっしゃりました。

        続けて

        「ただし、もらう家から誰も死者を出していない。ケシの実を持ってきなさい」

        ケシの実というのは当時のインドではどこの家にもあるもの。日本でいうお米のような存在。

        ゴータミは簡単なことだと周辺の家を回りました。

        確かにどこの家にもケシの実はありました。

        しかし

        「死人をだしていない」家はありませんでした。

        父を、母を、親戚を、夫を、妻を、我が子を亡くしています。

        伺う家すべてに死者がいました。

        ゴータミはふっと気づきました。

        「皆、いつか大切な人を失う。早いか遅いかはあるにせよ、いつか愛する人と別れなければいけない」

        再びお釈迦様に出会い、彼女はそのことをお釈迦様にお伝えしました。

        お釈迦さまは

        「ゴータミ、まさにその通りです。諸行無常、この世に絶対や順序なんでないのです。大切な方を失ったあなた。

        生きている人には生きている今、愛を捧げてあげなさい。亡くなった人には亡くなったまま、愛を捧げてあげなさい。」

        そうお伝えくださいました。


        【一口法話】ありがとう 言葉に 心に 行動に

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          今月の掲示伝道



          『ありがとう 言葉に 心に 行動に 有難う』



           「パパお茶「お茶下さいでしょ」



          「ありがとうは?」「ありがとうございます」



          日常的な我が家の会話。





          「ありがとうございましたー」



          コンビニで、レジを打ちながら店員が発する言葉。





          口先だけの「ありがとう」





          テレビで



          行方不明になった我が子、数日ぶりに無事に戻ってきた。



          捜索してくださった人々に 父が頭を深々と下げ、涙ながらに「ありがとうございました」





          この父の心は何か。もう無理かもしれない。だめかもしれない。もう会えないかもしれない。



          そんな我が子の奇跡の生還。有ることの難しさを誰よりも感じた。それが叶った喜びがあの父の「ありがとうございました」





          何でも「当たり前」の世の中。





          1つ1つが偶然であり奇跡であり、今しかない幸せと感じられたときに、人の言葉や行動や心が変わってくる





          お茶を入れてくれる人がいる奇跡 お茶を入れてといわれる奇跡





          「当たり前」を「有り難い」と受け止めることが幸せへの第1歩。



          〔一口法話〕幸せな日暮を送るために

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            「仏教」とは、仏の教え。仏教をお開きくださったお釈迦さまの教え。お釈迦さまは、その時代に生きる人々に教えを説かれました。その教えは、説く相手の人柄や受け止める器に応じて内容も様々ですが、その教えを説かれた人々が、今日より明日、より幸せな、より前向きな日暮しを送れるようになる教えを説かれました。いくら時代が変わっても仏教のみ教えは、今生きる我々が、より幸せに、より前向きな日暮しを送れるように説かれたみ教えなのです。
             仏教のみ教えを一言で伝える事は至難です。なぜなら先程お伝えしたように、お釈迦様のみ教えを人に応じて変えられたからです。数え切れないほどの、み教えがあります。その数限りないみ教えを、あえて一言で申すなら、『如実知見』の教えであると言えます。「如実」という言葉は一般的にも使われる言葉です。例えば、「あの少女の後姿には、試合で敗れた悔しさが如実に表れていた」などと使います。まさに悔しい心が、ありのまま背中に表れていたということです。つまり「如実」とは、「ありのままの姿」と言えます。「知見」とは「正しく見る」という意味。つまり『如実知見』とは、「ありのままの姿を、正しく見る」これが仏教であるということです。ありのままの姿を正しく見ていると、私たちは幸せな日暮しを送ることができるということです。
             では、実際私たちはありのままの姿を正しく見ているでしょうか。想像してください。目の前にコップがあるとします。その中には水が半分入っています。さて、中の水は多いですか?それとも少ないですか?半分は半分。多いも少ないと思われるでしょう。コップの水が半分。多いも少ないもなく、ありのままの姿を正しく見ることができます。
            ビールが好きな方。この夏の暑い日。一日働いた後に、ビールを注いでくださる。そのビールがコップの半分しか入っていなかったらいかがでしょう。少ない!半分しか入っていない!と、ならないでしょうか。自分に利害のない、ただ想像するだけであれば、ありのままの姿を正しくとらえることができる私たちではありますが、ひとたび、この私となると、自分の都合が出てきて「多い」「少ない」とありのままの姿を見ることができないこの私たち。お経には、私たちは「恒審思量」恒に思いを量っている、だれを中心に、それは自分の都合。自分中心の考え方をするのが、この私たちですよとお説きくださっています。
            幸せな日暮しをするためには、ありのままの姿を正しく見ていく事とお説きくださりました。確かにその通り。しかし、この私を見てみると、ついつい自分の都合で物事を考えてします。そういう考えではなかなか幸せな日暮しを送ることはできません。
            ではどうすればいいのか。そこで大きな導きを与えてくださるのが仏様であり、先だったご先祖様です。仏様やご先祖様を、時に自分の鏡に、時に自分の物差しとさせていただくのです。『損かと得か、人の物差し うそかまことか、仏の物差し』自分自身の価値観で損か得かの物差しではかっているこの私ではないか、まことの心で考えているか、その物差しが少しでも入ってきたならば幸せな日暮しは必ず近づくはずです。それと同様に、先だった人はいつも今生きている我々を見守ってくださっています。見られて恥ずかしい考え方や日暮しを送っていないか。
            また先だった方々は私たちにたくさんの事を教えてくださります。例えば、「今日という一日はどんな一日か」それは昨日亡くなった方が、何としても生きたかった一日であるということ。その今日を生きている私たちは、その人達に見られて恥ずかしい「今日」を送っていないでしょうか。また亡くなった人が最後に教えてくれること、それは、いずれ人生の最後を迎えるということ。
             命懸けで教え、示してくださった事を無駄にしてはいけません。亡くなった方々や仏様としっかりと向き合うことにより、感謝や反省の心が生まれてきます。また課題や希望も湧いてくるときもあるでしょう。その心の想い、それは「南無阿弥陀仏」の六字にすべて込められています。改めてご先祖様に思いを寄せて、口に南無阿弥陀仏とお念仏申すお盆に、共々にさせていただきましょう。
             

            【一口法話】伝道掲示

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              心をこめてまいた種は どんなに小さくても 時が来れば 必ず芽がでる


              あの人を想って、あの子のために
              伝えて、伝えて、心にたくさんの種を植えていく。
              今は伝わらないかもしれない。変化はないかもしれない。
              でも、その種は、いつか縁と結ばれた時に芽がでる。
              小さいかもしれない。わかりにくいかもしれない。
              でも、縁に触れ、必ず芽がでる。

              諦めず、心をこめた種を蒔き続けていこう。そして、どんなに小さい芽も逃さずに見ていこう。想っていこう。

              それと同時に

              自分がたくさんの人から、そう育てていただいたことに気づいていこう。

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